■エビローグ 同日 午後8時
夜の鹿児島湾は凪いだ海を無数の星が覆い、僅かに残った雲がときどき月を遮るだけで静かだった。
小林源太郎は海を見渡せる小料理屋の暖簾をくぐって、カウンターで飲んでいる瀬古支店長の横に座った。
「支店長、電話くれて助かったよ」
マンションから歩いて10分くらいの所にある料理店まで駆けてきたので、額ににじんだ汗を冷たいオシボリでふきながら小林は瀬古に礼を言った。
「若いふたりを、源さんが持て余していると思ってな」と瀬古が小林のコップに冷えたビールをそそいで笑った。
「いやー、驚いたよ。南部と千里に両手をつかれて結婚を許して下さい、と言われたときは。思わず、おい、かあさん、と死んだ女房を呼んだりしてな」頭に手を置いて小林が苦笑する。
「おめでとう。良かったな。肩の荷がおりたろう?」
「ありがとう。俺が知らないところであのふたりは支店長のお世話になっていたらしいね。しかも仲人まで頼んでいたそうで、本当に申し訳なく思うよ」
小林は立ち上がって姿勢を正して瀬古に深く頭を下げた。
「何言ってるんだ。水臭いぜ」瀬古は小林を椅子に座らせて又ビールを薦めた。
「でも、今日は疲れたろう。傷は大丈夫?」
「ああ、もう大丈夫。鬼頭島に着いて診察してもらった」小林はビールで咽喉を潤しながら言った。
「それにしても、今日はいろんなことがありすぎたよ。俺にとって一日が一生涯みたいにドラマチックだった」
ラストフライトが欠航した朝に始まって、嵐の救援飛行、娘の結婚話、そして父との不思議な再会。
鬼頭島の手前で嵐の最後の雲を抜けるとき、いつも仏壇の写真で見ている茶色の飛行服に身を包んだ父が、《銀河》を操縦してYS-11の左翼ぎりぎりまで近づき、風防越しに笑顔で小林に敬礼を送った。そして《銀河》は雲の中に姿を消した。思い起こせば昭和20年4月3日、父が消息を断ったのはまさにこの空域であった。
「あるんだよな。誰にでもそんな日がね、一生に一度くらいね」
料理が出て、ふたりは暫く新鮮な刺身に舌づつみを打つ。
「ところで、源さんのラストフライトのスケジュールは明後日の751便、奄美大島便になったんだよね」
「うん。先ほど田口から電話貰ったよ」
「そうか、あ、それからね。”鵞鳥”なんだが」と瀬古はビンに残ったビールを自分のグラスに入れた。
「右翼に燃料タンクを含めて7個所ほど電劇を受けた穴が空いており、エンジンのオーバーホールもしなければならないので、少し早いが引退させることにしたよ。あいつも最後の大役を果たして本望だったろうな」
「そう、引退か…あいつ」
老骨に鞭打って、嵐の中を、しかも片肺で懸命に飛びつづけたYS-11「疾風」こと”鵞鳥”。俺は一生おまえとのフライトを忘れないぞ。小林はビールのグラスを置いて一瞬、目を閉じ友人の冥福を祈るように言葉を詰まらせる。
少し沈黙が続いた。
おかみさん、熱いのをひとつ。と瀬古が酒を頼んだ。
「俺、源さんと付き合いは長いけど、源さんが何故、自衛隊勤務から旅客機パイロットに転身したのか聞いてなかったな」話題を変えて瀬古が尋ねた。
「ああ、随分昔の話だな」小林は少年のような顔をした。
「昔、ジョン・ウェインの映画で『紅の翼』というのがあったろう。あの主人公のダン・ローマンに憧れてパイロットになったようなものさ。ネクタイをゆるめてさ。帽子を斜めにかぶって壊れたエンジンを見上げる最後のシーン。伝わってくるんだよね。仕事を終えたパイロットの喜びがさ。満ちたりたパイロットの心がね」懐かしそうに、でも少し照れながら小林がとつとつと話した。
「今の源さんもそんな心境だろう。いい顔しているぜ」
「ありがとう。良い人生だったと思っているよ。ただな、機体が陸を離れた瞬間に感じる解き放たれたような開放感。あれが味わえなくなるのが、辛いな。いちばん、つらい」
小林は思いきり寂しそうな表情を見せた。
唐突に瀬古が笑った。
「これからも、味わえるかもしれないぞ。まあ、毎日とはいかないかもしれないけれど」
え?…。小林が怪訝そうに瀬古を見た。
「実はな。そのこともあって、今夜話をしたかったのだよ」瀬古は杯を置いて、まじめな表情をする。
「知ってるだろう? 本社の塚田取締役運航本部長。あのひとから内々で話があったんだが、来年3月には離島飛行隊を独立した会社として発足させたいそうだ。まあ、行掛りで俺が代表に推薦されたが、塚田さんの希望は源さんを運航の責任者にすることだった。もちろん、俺に異存があるわけでない。勝手だったが喜んで承諾させてもらったよ」
小林は一瞬、意味が飲み込めない様子だった。
「別の会社にするのか?」
「ああ、トランスジャパンの百%子会社だが、鹿児島に本社を置いて薩南諸島から沖縄までをカバーする離島運航専門の会社だよ。それで源さんは取締役運航部長さ」
「俺、まだ、飛べるのか?」
きつねにつままれたように小林の両眼がばっちりと開く。
「飛べるさ。ここ、薩南の空にかけては源さんの右に出る者はいないだろう。それにな、新しい会社の飛行機は全部、レシプロ機ばかりさ。YSとかデハビランドなんかな。又、一緒にやろうぜ」
「おい。俺はほんとうに飛べるのか?」
「飛べるさ」瀬古が小林の肩を抱いた。
「源さんのこれからは空が滅法好きでたまらないという、パイロットの心を持った若い奴を育てていくのが仕事なんだからな」
小林は妻を想った。
妻は暖かい笑みで小林を見つめている。
「今日は長い1日だったわね、あなた、ほんとうにご苦労様でした」
目頭が熱くなって涙がとめどなく雫れた。今日は涙も一生涯分流しているな、と苦笑しながら小林は瀬古がついでくれた杯に口をつけた。
「お客さん。こっちに席を移りませんか? 満月が見えますよ」
女将が2人を窓べの座敷に誘った。
台風一過。鹿児島の海を照らす月は丸く、大きく、輝いて見えた。
完
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